障害を語る時に使う英語表現 〜語るための言葉から実践するための言葉へ〜
障害に関する議論に必須の英語表現を紹介します。今回取り上げるのは「障害の医療モデルと社会モデルを統合したと言われているICFとは何か」、「障害者差別は ableism? disablism?」、そして「合理的配慮は誤訳なのか」というトピックです。
前々回の「障害を語るときに使う英語表現を解説します 〜障害の社会モデルを中心に〜」、
前回の「障害を語るときに使用を控えるべき英語表現とは」はもうご覧になりましたか?
前々回は
そもそも「障害」を表す言葉には disability、impairment、disorder がある
social model of disability はどういう考え方で、medical model of disability とはどう違うのか
を解説しました。
前回は、
dumb、lame などの、元々障害を指していた言葉が侮辱的な言葉として流通していること
「障害者」を表すのに適切なやり方はあるのか? 使用を控えるべき表現は?
Deaf と deaf の違いは「民族化しているかどうか」
といった内容をお送りしました。
もしまだご覧になっていない方は、ぜひそちらも合わせてお読みください。
さて今回は、以下の内容となります。
社会モデルは万能か? 相互作用を重視する新しい ICF という考え方とは?
ableism も disablism も「障害者差別」?
「合理的配慮」は誤訳なのか

ICF (International Classification of Functioning, Disability, and Health)
日本語だと「国際生活機能分類」と呼ばれており、2001年にWHO(世界保健機関)が採択した生活機能モデルの枠組みです。
生活機能モデルは、「障害は治療の対象である個人の身体的状況だ」と捉える医療モデルからも、「障害は社会設計によって生み出される困難のことだ」と捉える社会モデルからも一定の距離を取っているため、「医療モデルと社会モデルを統合した」と評されることが多いです。
(社会モデルについては前々回の「障害を語るときに使う英語表現を解説します 〜障害の社会モデルを中心に〜」に詳しく説明してあります。)
この生活機能モデルにおいて「障害」とは、健康状態、心身機能、活動、参加、そして環境因子や個人因子がすべて互いに影響し合って発生するものです。また、このモデルは障害者の状況を説明するためのモデルではなく、すべての人の生活状況の全体像を把握できるような尺度・分類として作られています。
このモデルの特徴は、「何ができないのか、できない理由は何なのか」という観点だけで障害を見るのではなく、「どうすれば、何ができるようになるのか」という支援的視点を中心に据えていることです。
社会モデルの支持者たちからは「社会の不平等や不均衡を『環境因子』というさも中立なカテゴリーに入れてしまっている」、「個々人の状況に焦点を当てすぎることで、結局医学モデルへの回帰が起きたり、社会変革が遅れたりするのではないか」という批判も出ており、私自身もこれらの批判に共感しています。
ただ、社会モデルを支持しておきながら具体的に何か障害者のためになるアクティビズムに積極的に参加しているわけでもなければ障害者支援に携わっているわけでもなかったり、障害に関する不平等や不均衡についてより深く学び理解しようとしているわけでもなかったりする人は、たくさんいます。私自身も不十分だなと感じています。
実際の障害者の生活状況を改善させるわけでもないのに「社会モデル」という枠組みについて空中で語り合うことに何の意味があるのだろうか、と感じる人がいてもおかしくありません。そこでこうして生活機能モデルを導入することで「どうすれば、何ができるようになるのか」という支援的視点がスポットライトを浴びるようになるのは、おおむね良いことだと私は思っています。
不平等、不均衡については社会モデル的な枠組みで捉えつつ、同時に生活機能モデルを前提とした実践をする、というのがベストなのではないでしょうか。
さて、次はそうした見落とされがちな不平等、不均衡について人々がどんな言葉で語っているのかを見てみましょう。
ableism vs. disablism
これら二つの言葉は日本語だとどちらも「障害者差別」と解釈されることが多いです。前者は「健常主義」「能力主義」と言われることもあるかもしれません。
まずは基本的な違いについて、People with Disability Australia のサイトから引用します(スペルがイギリス風ですのでご注意ください)。英語学習者のために、各センテンスのメインの主語部分を太字で、メインの動詞部分を斜体で表し、簡単な補足も書いておきます。
(英語の読解が苦手な人も下に簡単なまとめを日本語で書いてありますのでご安心ください。)
Ableism and disablism both refer to types of disability discrimination. The nuance between the two words can cause confusion but are important for acknowledging, detecting, and dismantling the types of barriers people with disability encounter.
refer to 〇〇 = 〇〇のことを指す
confusion は不可算名詞
2つ目のセンテンスには動詞が2つある
acknowledge 〇〇 = 〇〇の存在を認識し受け入れる
detect 〇〇 = 〇〇 の存在を知覚する/検知する
dismantle 〇〇 = 〇〇を解体する
the types of barriers と people with disability encounter の間には (that) が隠れている
Ableism is discrimination that favours “able-bodied” people, or people without disability. Ableism prioritises the needs of people without disability. A building designed without a ramp or a lift for people who require them, a lack of captions for a meeting, and stadiums without low-sensory spaces are all examples of ableism.
able-bodied people は「健常者」という意味で幅広く使われている
発達障害の文脈では neurotypical などの言葉で「発達障害を持っていない」ということを表す場合もある
or の前にカンマがあるときは「別名〇〇である」とか「つまり〇〇のことである」というニュアンスが含まれることが多い
A building designed … の部分は後置修飾
a lack は可算名詞
Disablism is the inherent belief that people with disability are inferior to those without disability. It is discrimination against people with disability, like those shared in the Royal Commission into Violence, Abuse, Neglect and Exploitation of People with Disability. Disablism can be a more direct, conscious act of discrimination and abuse. Using disability slurs, ignoring someone, or speaking in a patronising way are common examples.
belief の後の that は belief の中身を説明するための that であって、関係代名詞などではない
最後の文の Using、ignoring、speaking はすべて動名詞(「〜すること」)
つまりまとめると、以下のようになります。
ableism = 障害の無い人間を中心とし、障害の無い人間を優先的に扱う社会の規範
disablism = 障害のある人間を劣った存在とみなし、差別的に扱うこと
しかし歴史を紐解くと、これらの言葉にはアメリカとイギリスの障害をめぐる社会運動の文脈の違いが表れていることがわかります。
前々回の「障害を語るときに使う英語表現を解説します 〜障害の社会モデルを中心に〜」から引用します。
able(できる)に「分離」「剥奪」「否定」などを意味する接頭辞 dis- を付けて disable(できなくさせる、能力を剥奪する)。そしてそれの名詞の形が disability です。
この解釈の背景には、障害というものが当事者の身体や精神に内在的に存在するのではなく、人間の身体や精神の多様性を無視した社会設計によって排除された結果、特定の身体や精神を持つ人が何かを(社会設計によって)できなくさせられている、という考えがあります。
実はこの発想は、1970年代にイギリスに誕生した「UPIAS(隔離に反対する身体障害者連盟)」という団体がきっかけとなっています。これが障害の社会モデル(social model of disability)の発祥でした。
(もちろん団体が言い出す前から社会モデル的な感覚を持っていたり発言していた個人はいたことでしょうけれども。)
こうしてイギリスでは障害を理解する枠組みとして社会モデルが普及していきました。この基盤があるからでしょう、イギリスでは社会的排除や抑圧であることを強調する言葉として disablism を使い、障害者差別を語る人が現代でも多くいます。つまり「特定の人々に何かをできなくさせるような社会のあり方」を批判する姿勢、ということです。
一方アメリカでは、1960年代以降さまざまな社会運動が発展しましたが、障害者権利運動も例外ではありませんでした。その歴史の中で、1980年代に使われ出したのが ableism という言葉です。
この言葉には、「健常な心身であることこそが標準であり、優れている」という非障害者優先の価値観や、それに基づく社会構造に対する批判的な意味が込められています。ここでも社会モデルの枠組みは採用されているわけですが、ただその上で、社会設計のあり方というより、その根本的なベースとなっている規範そのものに鋭い目を向けているのが ableism という言葉だと言えるかもしれません。
次に、社会がこうした不平等、不均衡をどのように是正していくべきなのかについて、reasonable accommodation という言葉を通して考えてみましょう。
「合理的配慮」は誤訳なのか
reasonable accommodation という概念はアメリカのリハビリテーション法(1973年)にその萌芽があり、その後「障害を持つアメリカ人」法(ADA法、1990年)で明確に定義されました。2006年に国連で採択された障害者権利条約(CRPD)にも盛り込まれ、国際的な概念となっています。日本もこの条約に署名し、2013年の障害者差別解消法成立を経て2014年に批准しています。
日本では、reasonable accommodation は「合理的配慮」と呼ばれることになりました(外務省による訳出だと言われています)。これは、障害を持つ人々がそうでない人々と同等の権利や自由を有し行使することができるようにするための、現実的に無理のない持続可能な範囲で行われる調整や変更のことです。
もっとわかりやすい言葉で書いてあるサイト(日本財団)を見つけたので、引用します。
障害のある人にとって何か不便なこと(バリア)があるときに、そのバリアを取り除くために障害のある人と事業者が話し合って、事業者の負担が重くなりすぎない範囲内で、どう対応するかを決めましょうという決まり
このサイトではさらに以下のように補足があります。
合理的配慮では、双方の当事者同士が求める条件を満たすまで対話をしなければいけません。最初に求められた措置が、過重負担だった場合でも、それで終わってはダメで、過重でない範囲でこれだったらできます、という提案をします。その時に、当事者の側が「それだと自分にとっての障壁は除去されていません」と言ったら、じゃあ別のやり方を考えましょう、という形で対話が続き、事業者にとって過重ではなく、当事者もアクセスできる許容範囲に入るところで折り合うまで続けます。
また、毎回話し合うのではなく、ある程度どのような需要があるのかを踏まえた上で事業者(会社、お店など)が事前に対応をしておく、ということも大切です。
合理的配慮の実践例には、例えば以下のようなものがあります。
小売店のレジカウンターなどで、レジ袋の有無、温めが必要かどうかなどが指差しで伝えられるコミュニケーションボードを使うこと
飲食店で注文を筆談で受けること
小規模経営の店で、簡単な移動式スロープを用意しておき、車椅子ユーザーの来店時に店員が一時的に設置し使用後に撤去すること
大規模経営の店が工事をしてエントランスまでのスロープを設置すること
車椅子ユーザーが参加しやすい会場でイベントを開催すること
本人記入でなければならない書類を本人の希望で代筆対応すること(問題を防ぐために第三者の立ち会いなどの工夫が求められる)
合理的配慮概念については、2004年に行われた国際セミナー「『障害者権利条約』制定に向けた最新の動き」の中の「障害者権利条約に関するパネルディスカッション 条約制定に向けて戦略的課題とわが国の役割」で、長年障害者運動に携わっていた弁護士の東俊裕さんが次のように発言しています。少し長くなりますが、大事だと思うのでカットせず引用します。
こういう合理的配慮の話をすると「どうして障害者だけそんな特別な配慮が必要なのか、誰が金を出すのか」という人が必ず出てきます。講演会などで「皆さん、今日どうやってこの会場まで来られましたか、誰かの援助を受けてこられた人はどのくらいいますか。手を挙げてください」と聞くとほとんどいません。みんな自分の力で自分の金で来たと思っています。しかし、みんな公共交通機関、自動車なと、を使ってきているはずです。自動車にしたって道がなければ来られないわけです。パスにしても鉄道にしても明治以来、多くの税金と労働力とお金を投入し、その成果として、今のシステムがあるわけです。そのシステムを使ってみんな生活しています。そのシステムがなければ、社会生活は営めません。でも、そういう,恩恵を被っているというのは誰も考えません。
自分たちがそのような恩恵を被っているという意識がないので「どうして障害者だけ、特別のことが必要なのか」という発想が出てくるわけです。時代の進歩と共に、一般の人に対しては多額のお金をかけたいろいろなシステムが発展してきました。しかし、そのシステムの中で障害者のことが考えられてきたのでしょうか。私たち障害者は、社会の発展の中で取り残されてきたのです。だから、合理的配慮、という視点がなければ差別というのは、ある意味では、社会が発展すればするほど拡大していくのです。障害者個人の責任ではありません。社会がむしろ差別を拡大し、問題を引き起こしているという側面があるのです。
合理的配慮義務というのは社会進歩の中で見落とされ、無視され、排除されることで、生じた格差をなくしてほしい、少なくともスタートラインを同じにしてほしいという問題です。特別に障害者だけに配慮するということではなくて、これまで無視されてきたことをやめて、健常者と同じような視点を向けるということです。
こうした「どうして障害者だけそんな特別な配慮が必要なのか」という誤解が起きてしまうことについては、もともと「気遣い」や「思いやり」、「心配」を意味する「配慮」という訳語が選ばれたことが原因ではないかと考え、他の表現を推奨する人もいます。(例えば「現実的な調整」、「理性的かつ変化し得る妥協」、「双方合意の適切な環境調整」、「相互努力による適度な調整」。)
先ほどの日本財団のサイトでも、このようなやりとりが描かれています。
ダイバーさん
障害のある人に、合理的な範囲内で配慮をすることを義務にしたということですか?配慮を義務にするってなんかしっくりこないですけど。シティさん
そうですね。「合理的配慮」は私たちが「配慮」という言葉からイメージするものとは違っています。(中略)
星加さん
“accommodation”の方は、本来は「適応」や「調整」という意味です。合理的配慮の文脈では、障害のある人たちのニーズに対して行う調整というドライな概念なんですが、配慮という言葉は、気遣いや思いやりのようなウエットな働きかけを想起させると思います。(中略)
ダイバーさん
日本語の「合理的配慮」の語感は無視して、そういう新しい言葉だと考えたほうがわかりやすそうですね。星加さん
日本語の定訳ができる前、私は“reasonable accommodation”を「理にかなった調整」という言い方をしていました。「障害者のアクセスを可能にするための変更、調整」というところでしょうか。
ただ、配慮という言葉が使われたことに本来の意味とずれてしまうポイントがもう一つあります。配慮という言葉はする側の主体性が前面に出て、配慮する側がやるというニュアンスが強くなります。でも法的概念としての合理的配慮は、配慮を受ける側の意思表明が出発点になっています。この配慮を受ける側の意思表明の部分は合理的配慮のキモで、従来の障害者支援とは大きくパラダイムが異なる点なので、配慮という日本語訳が持つ語感にまどわされず、意味を理解してほしいです。
このように、「配慮」という言葉が選ばれてしまったことの弊害を指摘する声は多いですが、社会のあるべき姿、目指すべき姿のビジョンとして、この合理的配慮という概念が非常に重要なものであることも事実です。
先ほどの社会モデルと生活機能モデルの話とも似ていますが、どのような概念をどのように使い、どのような枠組みで物事を理解するかということがとても重要であるのと同等に——あるいはそれ以上に——重要なのは、その枠組みや概念が具体的な私たちの行動実践にどう結びつくか、それがどのような行動実践を可能にしてくれるのか、そしてそれを受けて私たちがどのくらい行動実践できるのか、ということだと思います。
私も「配慮」という訳はよくなかったと思っている一人ですが、それを嘆くだけでなく、きちんと自分の周囲の人々の誤解を解いていくこと、正しい概念の理解を広めていくことに力を注ぎたいと思っています。
ひとまず障害編はこれでひと段落となります。
ジェンダー編、セクシュアリティ編の続きも予定していますし、その他のトピックについてもアイディアを練っているところです。どうぞお楽しみに!
瀬戸マサキ
